日本のガラス

日本のガラス

日本のガラス [ 化粧品容器のルーツ(ガラスとプラスチック〜容器の歴史) ]

日本においては、中国から伝わったガラスをもとにして、弥生時代から勾玉(まがたま)などのガラス玉類が作られていた。古墳時代には玉類も形、色彩とも多種多様になり、古墳からトンボ玉など多数出土している。飛鳥、奈良時代には、朝廷の保護のもとで盛んにガラスが製作され、原料調合からのガラス製造に関する記録も残っている。これらの玉類は主に仏具に用いられた。


 その後もガラス玉類は作られていたと考えられるが、それ以上の技術の発展は見られず、ガラス容器の製造については、江戸時代まで行われた記録がない。正倉院の瑠璃碗や瑠璃壷など、日本におけるガラス容器の遺品は中国を経由した輸入品と考えられている。


 これら輸入のガラス容器は、特に社寺において、仏舎利を入れる容器に用いられることが多かった。平安文学には瑠璃杯、瑠璃瓶など「瑠璃」の品々が登場する。これらの品々は、宮廷貴族の間で、仏前の調度や大事な行事でのしつらえ、進物、また「薬・香・黄金」といった貴重な品々の容れものとして重用されていたことがうかがわれる。


 近世に入って中国人の他、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人来訪など海外との交流が盛んになるにつれて、多くのガラス製品が流入した。それと共にガラス製造技術も伝えられ、江戸時代には長崎で製造が始まり、大阪、江戸へ、その後薩摩藩など各藩へと広がっていった。


 江戸ではガラスの瓶や食器類(皿、徳利など)、かんざし、トンボ玉、風鈴、レトルト、寒暖計など多種多様のガラス製品がつくられていたことが記録に残っているが、ガラスはまだ珍品であり庶民的な扱われ方をする品はごく少なかった。


 明治に入ると国策として官営ガラス工場が設立された。ガラス製造は西洋の技術を導入した近代化、量産化の方向へと大きく流れ、官営及び民間のガラス工場はともに試行錯誤をくり返し、ガラス工業の発展に心血を注いだ。


 明治から大正にかけては、瓶類、食器類、ランプなどの灯用品、板ガラスなどの実用品の製造に力が入れられ、需要の増加と共に、明治末期頃からは機械化による量産が始まり、普及への飛躍的ステップとなる。


 今日我々は、生活の中にとけこんだガラスを身近な日用品として楽しみ、美術工芸品として鑑賞する。またガラスは医学、理化学、建築、照明、光学、通信、電気電子用・・・などあらゆる分野に活躍しているがまだまだ未開発の部分が残っている、未来の大きな可能性と夢を秘めた存在である。

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